巨大地震らしい

地震来た。東京では震度5強と発表された。職場は古い建物だが10階建て以上であり、その上の方にいたので崩れて死ぬかと思った。周りでは誰も怪我して無くて良かった。

何分机の下にいたか分からない。「地震が来たら時計で測ろう」とか日頃思っていたけど、最初の揺れが弱くて油断した。強くなるまで30秒以上かかったと思う。

・段々強くなる
・東京でもこれほどの揺れ
・分単位で揺れてた

ので、「遠くで(巨)大地震」とすぐに直感。「東海地震の予知が失敗か?」と思ってた。

地上に避難。スマートフォンの持ち主から、「東北沖・M7.9」との速報が。巨大地震というのは予想通り。場所はちょっと予想外だったが、考えてみればここでの巨大地震の可能性は大であり、自然なことだ。M7.9って、こんなに長い時間揺れるのか。マジ怖え。本当に東海地震だったらどうなるだろう、と思った。

暫く地上にいて、同僚と「こうしていても仕方ないなあ」と語らい、階段で職場に戻ろうとした。が、途中で立っていられないほどの揺れがまた来た。2人で青くなって地上に戻った。

歩いて帰宅。破損した塀やビル、倒れた商品を数カ所で目にする。途中でワンセグ放送を受信し、「M8.8に修正」(第1報 [M8.4]・第3報[M8.8へ])と聞く。ウソだろ!?日本近くで起こるものとしては、未曾有の超巨大地震じゃないか。後でよく考えたら、気象庁の速報データは巨大地震には対応できず、数値は頭打ちになるはずだった。

3時間歩いて帰宅した。その1時間ほど前に、既に帰宅していた子供と連絡が取れた。

M8.8なら、日本海溝沿いのプレート境界面が幅広くぶっ壊れたに違いない、ということは、詳しいデータを見なくても分かった。東北地方が、大津波を伴う怖ろしい程の大被害に見舞われていること、犠牲者は最終的に数万人に上る恐れがあるだろうことも想像できた。

帰宅して、ガスの非常遮断弁を回復し、パスタ料理をつくり、家族で食卓を囲んだ。これはなんて有り難い話なんだろう。

ひと心地ついたら、断層面の「割れ残り」が気になった。どこでどのくらいの余震が起こっているのかが一つの指標になる。

ところが、肝心の強震計ネットワーク「Hi-Net」が全く繋がらない。

仕方なく、アメリカ地質調査所(USGS)のページに。役に立った。余震域で、どこがぶっ壊れたか分かった。犬吠埼のすぐ近くまで壊れたではないか!では、もうそこが割れることはない。少し安心した。もっと南が壊れる可能性もあり、あまり安心には根拠はないのだが、ともかくなぜか安心した。

恩人たち

「朋百舎密書(ぽんぺせいみしょ)」が化学遺産(日本化学会選)に認定。これ、残っていたのか!!!松江赤十字病院は偉い!!。

オランダ人軍医ポンペが、幕末期に長崎の西洋医学所で講義した記録である。後に化学に進んだ人が記したので、主にそちらの記述が多い。舎密=化学(Chemistryの発音から由来)である。

ポンペは言うまでもなく、近代日本医学の大恩人である。幕末~明治初期の医学に携わった人達には、ポンペから長崎で直接講義を受けたお弟子さんたちも多い。

なぜ医学でなく「化学」なのか?そこが西洋医学の思想そのものであり、ポンペはその精神も伝えようとしたのだ。医学とは、数学・物理学・化学など、全ての学問を元に構成されている総合科学である。従ってポンペのカリキュラムには、これらの基礎科学の講義も入っていたのだ。「医者は医術のみ」だった当時の日本人にとっては、衝撃的だっただろう。

ポンペがすごかったのは、それらの基礎科学も、全て自ら講義したことである。

問題は、それら全ての講義を理解するに足るほどの蘭語の語彙力を持っている当時の日本人学生など、居ないに等しかっただろう。恐らくただ一人の例外・佐渡の伊之助(司馬凌海)を除いては。

伊之助のお陰で、多くの日本人学生がポンペの講義を理解でき、近代医学用語もできあがった。伊之助も近代日本の恩人である。しかし、学生たちの多くがその後、明治政府の元で大役を果たすことになった一方、伊之助は一人寂しく死んだ。

伊之助はアスペルガー症候群(AS)であったと伝えられる。恐らく間違いないだろう。彼の小説を記した司馬遼太郎も凄い。司馬遼太郎は恐らく、ASなんて概念は全く知らなかったはずだが、ものの見事にそれを描写しきっている。