縄文時代の綱島は?

先週は、相鉄・JR連絡線について触れたが、今度は相鉄・東急連絡線。

基本、ツイッタで呟いたままなのだが、ここでは追加情報をご提供する。

綱島駅北東・東横線の海側を走る綱島街道沿いに、急な石段がある。102段の石段を登ってみると、「綱島鎮守 明神社」という石碑が。

上からは、線路が良く見える。登ってきた石段を上から見下ろすと、ほとんど垂直に見えるぞ。

昔は、線路山側の丘陵とつながっていたのだが、東急線建設時に開削されたらしい。3Dマップで表示すると、黄色の↓の部分だ。

この付近、平地にこのような丘陵がところどころにあるんだな。その幾つかを新幹線も貫いて走るが、縄文海進の頃は、実際に海に浮かんだ島だっただろう。松島 のような風景が広がり、今なら間違いなく景勝地になっていたはず。三浦半島と、房総半島(海進が最大だった頃は島だったはず)に遮られた、遠浅の静かな海が広 がっていたことだろう。縄文人達は船を浮かべて、ふんだんに海の幸を得ていたに違いない。

見てみたかったなあ。

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