江戸の高架水道。

神田川の開削で、一つ困ったことがあった。

家康の江戸入府後すぐに、街の基礎である水道の整備が開始された。神田上水である。小石川付近から水戸藩邸(後楽園)内を通り、江戸城内に水を導いていたのだが、その経路を断ち切ってしまうのだ。

そこで懸樋を建設し、神田川を越えることにした。

明治になっても使われていたらしい。役割を終えたのは、20世紀初頭だそうだ。

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