精神の中軸に「正義」を。

「正義」を口にすると、訳知りの声が返ってくるね。

曰く、

〝正義の定義は人によって違う〟〝正義を振りかざすことが軋轢を生み、争いの元となる〟etc.

・・・ああ、如何にも「ものを考えている」体だね。だが、それは何にも言っていないのと同じ。世の中の不条理に目を閉ざし、何もせず、逃げる言い訳にしかならない。百歩譲ってそれらの声に耳を傾けるとしよう。たしかに定義は人によって違い、時代によっても変遷するかもしれない。その複雑さゆえ、思考放棄し「正義」から逃げていないか?

本当に守らなければならないものは、そんな複雑じゃない。

今の日本なら、〝平等であること〟〝抑圧されないこと〟。この2点で十分である。

そこで「じゃあ平等って何よ?」って言ってるヤツ。反論する前に、自分の身の回りを見てみろよ。門地・性別・職業による差別は幾らでもあるだろ?見ようとしないから見えないんだ。

「北朝鮮じゃあるまいし、抑圧なんて…」なんて言ってるヤツ。お前の目は節穴か?企業は過去最大の内部留保を抱えている一方、貧困家庭が6分の1に達し、母子家庭なら半分が貧困である。多額の学費にあえぎ、意思や能力があるのに進学を断念する人も多い。やっと卒業しても、奨学金が重くのしかかる。

婚姻時、「女性が姓を変えるのが当たり前」だと思っていないか?96%の女性が改姓を余儀なくされる。これのどこが抑圧じゃないんだよ?たった今、妻の実家じゃなくて夫の実家に妻を泊まりがけで伴い、夫のほうは炬燵で丸くなって妻に実家の家事をさせたりしていないか?家父長制っていう奴隷制の下に、女性を虐げていないという確信は、一体どれだけの男が持てるのか?

たとえ「平和憲法」の元で、上っ面だけの平等を法が保証していたとしても、実態として平等が確保されていなかったり、抑圧状態が残っていれば、その状態は決して正義ではない。

もう一度言う。〝平等であること〟〝抑圧されないこと〟。この2点は、現行法すら凌駕する、人類が追求すべき普遍的価値である。仮に現時点でこの2点が実現していなければ、逡巡することなく法を変える必要があり、そのような価値観を共有できる人だけに政治は任せないといけないのである。

現政権を見るがいい。彼らは本当に、その価値観を負託するに足りる存在なのか?今一度考えてみる必要がある。

来年は、エセ愛国カルト政権はもう要らない。今必要なのは、個人が正義をその心底に抱き、それに背く存在には明確にNo!を叩きつける勇気である。

来る2019年の皆様もご多幸をお祈り申し上げます。よいお年を。

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