「面会拒否」の一方で…/長崎原爆忌

新幹線西九州ルートのフル規格化に反対の佐賀県だが、同じ県内でも、既着工区間の沿線はフル規格を推す。もちろん長崎県内でも同じだ。

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その長崎は、原爆忌。市長の平和宣言はこちら。

一方で総理様は、数年来同じ内容のコピペ然。「本当は来たくないけどしょうがないから来てやったぜ」感が滲み出てる。無駄なことするなら二度と来るな。

「保守」という言葉の意味

斜面ってのは、元々耕作には適さない。

そこを拓き、僅かな土地で米を作る。

稲作には、水を引かねばならない。沢の水を引くのだが、適切な水温の管理が難しい。そもそも、田に引いた水を漏らさずに石垣を組むのが至難の業だろう。

斜面を埋め尽くした棚田を見るとき、この地を拓き、守ってきた地域の先祖達に、深い崇敬の念を抱くのを禁じ得ない。

太古には、このような技は困難だっただろう。日本は、稲作の故郷に比べ寒冷であるはずだから、稲作技術の深度化が必要だったし、斜面を拓くには、土木施工技術の高度化や社会の集団化も待つ必要があった。生活を「保」ち「守」るということは、狷介固陋であり続けることでは断じてない。

不具合を少しずつ修正し、時代に合った新しいものに変え続けることことが保守である。鉄道の保守部門の仕事を思い出していただければ、その言葉の意味が分かるだろう。昨今の自称・保守派は、そこを根本的にカン違いをしている。先祖に敬意を表したいのなら、時代に適合するよう自らを変えつづけてきた、先哲の姿勢にこそ学ぶべきだ。何でも懐古趣味に浸るのが保守だと思っているのは、単なる暗愚である。

※撮影地:俵坂峠付近。

日本仕草。

昨日の続き。

磔刑に至った仕置書が展示してあった。曰く、詰まるところ「日本は神國だから邪教徒はケシカラン」のだそうだ。

いや、もちろん分かってるよ。布教を口実にしてヨーロッパが侵略行為を進めていた側面もあるって事くらい。そこじゃなくて、弾圧の口実に〝日本は神國〟を持ち出してくるところがアタマ沸いてて滑稽だってこと。そして、それを為政者が言い出した後は、おびただしい数の人が死ぬところも、後世と一緒だ。

で、今も実際、総理周辺がそう言ってるじゃねえか。そこがヤバさを感じずには居られない理由なわけ。これは日本仕草なのかもしれないが、神國云々を持ち出してニッポン凄いって言うヤツは、とことん信用ができない。

最初の殉教者。

422年前の今日・1597年2月5日、秀吉の命により、長崎でカトリック教徒26人が磔刑に処せられた。後年に相次ぐキリスト教徒弾圧による殉教の始まりであった。

長崎駅からほど近い「日本二十六聖人殉教の地」。彼らは畿内から護送され、この地で天に召された。

最年少の殉教者は12歳であったという。

江戸の高架水道。

神田川の開削で、一つ困ったことがあった。

家康の江戸入府後すぐに、街の基礎である水道の整備が開始された。神田上水である。小石川付近から水戸藩邸(後楽園)内を通り、江戸城内に水を導いていたのだが、その経路を断ち切ってしまうのだ。

そこで懸樋を建設し、神田川を越えることにした。

明治になっても使われていたらしい。役割を終えたのは、20世紀初頭だそうだ。

茗渓。

江戸川橋以東の神田川開削工事が開始され、おおよそ400年が経過。

それ以前は、首都高5号線沿いの現・日本橋川が流路だった。しかし、この経路は川が真っ直ぐ江戸城に向かうことを意味する。相次ぐ洪水から江戸を守るため、2代将軍秀忠が伊達政宗に命じて、駿河台を開削して東流し、隅田川へ注ぐ今の流路の整備を開始したのであった。法面に沿うように、中央線が走る。

水面からの掘削深は、最大で20メートルを越えていると思う。

この部分が人工河川であることを忘れてしまった人が多いと思う。

恩人たち

「朋百舎密書(ぽんぺせいみしょ)」が化学遺産(日本化学会選)に認定。これ、残っていたのか!!!松江赤十字病院は偉い!!。

オランダ人軍医ポンペが、幕末期に長崎の西洋医学所で講義した記録である。後に化学に進んだ人が記したので、主にそちらの記述が多い。舎密=化学(Chemistryの発音から由来)である。

ポンペは言うまでもなく、近代日本医学の大恩人である。幕末~明治初期の医学に携わった人達には、ポンペから長崎で直接講義を受けたお弟子さんたちも多い。

なぜ医学でなく「化学」なのか?そこが西洋医学の思想そのものであり、ポンペはその精神も伝えようとしたのだ。医学とは、数学・物理学・化学など、全ての学問を元に構成されている総合科学である。従ってポンペのカリキュラムには、これらの基礎科学の講義も入っていたのだ。「医者は医術のみ」だった当時の日本人にとっては、衝撃的だっただろう。

ポンペがすごかったのは、それらの基礎科学も、全て自ら講義したことである。

問題は、それら全ての講義を理解するに足るほどの蘭語の語彙力を持っている当時の日本人学生など、居ないに等しかっただろう。恐らくただ一人の例外・佐渡の伊之助(司馬凌海)を除いては。

伊之助のお陰で、多くの日本人学生がポンペの講義を理解でき、近代医学用語もできあがった。伊之助も近代日本の恩人である。しかし、学生たちの多くがその後、明治政府の元で大役を果たすことになった一方、伊之助は一人寂しく死んだ。

伊之助はアスペルガー症候群(AS)であったと伝えられる。恐らく間違いないだろう。彼の小説を記した司馬遼太郎も凄い。司馬遼太郎は恐らく、ASなんて概念は全く知らなかったはずだが、ものの見事にそれを描写しきっている。